大雪と天ころ

祖父の一番したの弟にあたり、祖母のいとこでもある大叔父が亡くなりました
震災の日に亡くなるなんてね
大雪だし
おじちゃんったら

お葬式の日は、ちょうど休みだったので、運転手もかねて両親と参列することになりました

うちの祖父母は、いとこ同士なので、もともと一族同士の血のつながりが濃いとは自覚しておりましたが
今の今まで知らなかった(聞いたかもしれないけど、すっかり忘れてたのかも)事実にも、今回改めて遭遇
なんと大叔父の連れ合いである大叔母は、本家のおとうちゃんのお姉さんだったのです!
つまり、いつも遊んでるはとこにとって、大叔父は伯父にあたるわけですな
私と姉にとっては、大叔父
母にとっては叔父
はとこたちにとっては伯父

ああ、ややこしい

いろいろ事情があって、祖父方の家とは疎遠になっていたのですが、この大叔父だけはいつも心を配ってくれて、祖母のお葬式のときにもお棺を運ぶのに真っ先に手を差し伸べてくれました

祖父は若くして亡くなっているので、私は祖父を写真の中でしか知りません
大叔父が、祖母や私たち家族に優しくしてくれたのは、祖父が大叔父と仲が良い兄弟だったからだとわかったのは、祖母のお葬式のときに祖父と祖母の写真をひとつにして皆さんに差し上げたときでした
大叔父は、写真を手に取るとぽろぽろ涙をこぼして喜んでくれました
もともと、祖父の写真は少ないことと、大叔父が跡取りのない血縁の家に養子にいったこともあって、手元に写真がなかったのだそうです

私は祖父のことを知らないけれど、祖父が大叔父と仲の良い兄弟だったことで、大叔父が残された私たちにも優しくしてくれたのは、もとを辿れば祖父に行き着くのだなあ。。。そんなことを考えたら、すこし祖父のことがわかったような気がしました

祖父母は、生まれつき難聴だったり股関節脱臼だったりしたため、あの頃の時代には障害をもつ人たちは、生きていくのが今以上に大変だったことでしょう

祖父のことを知る数少ないひとりである本家のお母ちゃんから「寒いときは、懐に抱っこして暖めてくれる子ども好きな人だったけど、読んでる本は漢文のなんやら難しい本ばかりでちんぷんかんぶん(親父ギャグ大好き)やった。うひゃひゃ」という話を聞いたり、祖母から聞いた話によると、祖父は向学心を持ちながらも自分の意志で上の学校へ行くことができず、家業を手伝うことになったようです
写真の中の青年は、静かに微笑んでいますが、それを見るたび、なんとも言えない気持ちになります

大叔父は、いつも朗らかで80歳を過ぎても遊び心のわかる人で、携帯を新しくするたびに自分で説明書を読んでメール(絵文字もばんばんに使いこなしていたらしい)を孫とやりとりするような人だったらしく、くも膜下で倒れるまで元気に自分のことは自分でできる人でした
車も自分で運転してたし

いつかおなじ場所にいくそのときまで、私も向学心を忘れず、いつも機嫌よく、自分のことは自分で始末ができる人でいたいなあと思います

お葬式で、今まで疎遠だった祖父方のおうちの人たちと知り合う機会ができ、これもまた大叔父がつないでくれた縁かなあと、ありがたく、ほんとにおじちゃんには色々親切にしてもらったのに、ちゃんとお礼も言えず、お別れすることになってしまった
入院中に何度かお見舞いに行ったけれど、意識のあるときにお礼が言いたかった

それだけが心残り